regret
着々と積み上げてきた日常が決壊してしまうことがある。
私はそれが恋だということに後になってから気づいたんだ。
それはトゥインクルシリーズで全てを成し得た後の、忘れられない始まりだった。
◆ 私が欲しいと君は言った
「絵を描きたい? 君の部屋で私を?」
「あぁルドルフ。どうやら必要なことみたいなんだ」
「うん?」
三回目の花冷えの季節に、音もなく雨が降り出した夜のこと。
トレーナー室のソファで、帰宅の間際を二人で過ごす時間が密かな安らぎだった。
けれど、私の絵を描きたいという彼の言葉がさっと空気を塗りかえる。
独り言みたいな彼のお願いに、きょとんとしてしまった。
トレーナーの仕事にそんなものあっただろうかと疑問に思う。
けれど、絵を描く理由なんてこれくらいしか思い当たらない。
「ええと、トレーナー君。なにか仕事の内だろう?」
「いや、仕事ではないんだ」
「……では、どうして?」
「理由は──……言い辛いが、君じゃないとだめなんだ」
仕事ではない。そして君の部屋で、私でないと駄目。
ではなぜ、と理由を探して窓の外を懸命に眺めても。
窓のむこうは夜雨だけのからっぽで、私の心の中身ばかり映った。
もしかしたら忍びやかな逢瀬の誘いだったりするんだろうか。
理由を勝手に想像して、あえかに一人で赤くなってしまう。
彼のとなりでクッションを抱えて、唇までを隠した。
「……描きたいと言われても、飾り気にはあまり自信がないのだけれど」
「そんなことはない。ルドルフには綺麗なところがたくさんあると思う」
言いながら、吸い付くように瞳をそそがれていた。
きっと私は、……トレーナー君が、好き、だったんだと思う。
ただの好意ではなかった。もっとこころの深いところに根付いた、どうしようもないモノだった。とても小さくて目立たなかったから、きっと花が咲くまで気付かなかったんだろう。ましてや、自分にそういうものが芽生えていること自体、想像なんてできなかった。
けれど、私から彼の考えを理解しようと瞳を重ねてみても、その心持ちはちっとも掴めやしないんだ。
「例えば、その瞳」
「目、かい?」
「そうだ。いつも、声をかけるとその目が柔らかく細まって、綺麗な唇からほどけるような声がする。とても綺麗だ」
「そんな……それは甘言蜜語がすぎるよ。きっと紫の目が珍しいだけだと思う」
「いいや。夕暮れ混じりの青空を透かしたみたいで、綺麗なんだ」
ああ……、なんだか返事さえちぐはぐになりそうだ。
心を弾ませてはいけない。待ち望んだことのように聞こえてはいけない。
好きだと言われた訳ではないのだから。そんなのは、皇帝らしくない。
だというのに────
「他にも綺麗なところはたくさんある。
大きくうねる長い髪の毛。琥珀に染めた絹で編みあげた雲みたいだ。早駆けになびく尻尾も。
決して世辞は言わない、安心していい」
トレーナー君は静かな雨みたいにさらさら口説く。
それは絵を描くためだけの言葉? 私が今どんな顔をしていると思う?
トゥインクルは終わったんだ。私たちは先生と生徒で大事なパートナーだ。
“君と私”じゃない。私はそれを寂しいことだと思いたくないんだ。
私の恋は血筋で決まる見合いでいい。
だからどうか。
心の部屋の中心に飾っている、色褪せぬ慕情の火に薪をくべないで。
「──……そんな事を言われても、私は」
「ルドルフ」
「……なにかな」
「さっきの話の続きだ。君を描かせて欲しい」
きゅうっと、胸がつまった。どうして絵を描きたいと言われたくらいで。
この先トレーナー君が私の居ない場所で、私と分かれた後も相変わらず上手くやっていけるのなら、相変わらず寂しい私に何が言えるだろう。
判らない。わからないんだ。
絵を通して情を交わせば、好きになってくれるのか、と言う浅ましさに心が揺れる。
トレーナー君と私、その先にある幸せを思い描いてみる。
ならんで歩く。ともに暮らす。
……どうすればいい。
──まだ君の隣にいたい。
「私じゃないと、だめだろうか」
「ルドルフじゃないとだめで、大事で必要なことなんだ」
違う、私が君じゃないと駄目なんだ。大事な人なんだ。私にとっては誰よりも。
目も合わさずにトレーナー君の手を握った。同じくらいの力で握り返される。
このまま帰ることなんて出来ない。生徒と先生ではいられない。
君のこころを私の奥に深く沈めて、きれいな絵に変えてほしい。
だから、
「……君の寮まで車で連れて行って。雨が、降っているから」
──依々恋々。そうした話だ。
トレーナー君の部屋にかよい、ただ描かれるようになったのは。
目に見えない大事な何かに、火がくべられるように幕は開ける。
恋のしとねには、君と私だけ。
そこには君と私だけだ。
◇
それから一ヶ月がたった。
私たちは夜に出逢う。
時の歩みを取り戻すように。ゆっくりと、沈殿するように。
「お邪魔します」
小さな声で言ってから、二人で玄関に入った。
トレーナー君はどうぞ、と言いながら後ろ手に扉をとじ切った。
こぢんまりとした寮部屋。私達だけのアトリエ。
調度はモノトーンで統一され、最低限の家具のみ。そこに私と縁のある記念品とおもしき小物や雑貨が散りばめられている。
部屋の壁一面には書棚があって、ぎっしりとウマ娘に関する専門書が詰まっていた。
私は学生鞄をおろして窓側のベッドに腰掛ける。
「さて、今日はどんな色で描くのがいいと思う?」
「トレーナー君の好きな色でいいよ」
彼はいつも花の色をテーマに決めて描きたがるけれど、私の答えが変わった試しはないのだ。
どうして、見たとおりには描かないのだろう。
私の返事を知っているトレーナー君は満足したように笑う。
「じゃぁ本日のルドルフは桔梗色で」
「季節外れな選択だね。どうして?」
「なんとなくだよ。けれどこれも君の色」
「むぅ……意味深な」
先週はポインセチア。そのまえはサフィニアにタピアン。意図はわからない。
けれど、私に好きな色を落とせばいい。君に独占されたかった。
トレーナー君は必要以上にゆっくりと描く。
着衣の奥、肌を透かした血の色まで映し出そうとするように。
ベッドの向かいの椅子に腰かける彼と視線が合うたびに、ここちよい昂ぶりで満ちた。
描くだけでいいのか。とそんなことを言えば、どうなってしまうだろう。
それはとてもいけない事のように思われた。
「……どうして私を描くのかな。トレーナーから芸術家に転身したいというわけではないのだろう」
絵筆を持つ指先を眺めながら、心の内がこぼれる。
どこか言いしれない優しい寂しさをもつような瞳が私を撫でた。
「実を言うと、こうしてお願いする前に少しずつルドルフを描いていた。
けれど描いても描いても君の内面から溢れる美はとめどなかった。描けば描くほど美しくなっていく」
「君は相変わらず、恥ずかしげもなくそんな」
「今更だ。そうして描き終えるほどに惜しく感じた。
だから、偶然にこちらを向いてくれた、見ているだけで満足だった花を摘み取ってしまいたいと、思ってしまった……」
偶然なんかじゃない。それに花はもう、君にしか向けないんだ。
だから、私の心の一番柔らかい部分に切っ先を向けないで。
そんな眼で見つめられたら、せっかちな心音に追い詰められてしまう────。
「その花は、そんなに綺麗ではないと思う……」
「いいや、本当はもっと綺麗なんだ。まばたき毎に変わる表情も、てのひらで触れたら、くゆってたゆって捕まえることなんてできそうにない柔らかな髪も。余さず描いて全部暴いてやりたい」
どうして。どうしてそんな事を言うのだろう。
上面の言葉が逃げて行く。論理ががらがら音を立て、ただきみがいとおしい。
窓の向こうで夜が香る。深い海みたいに。
もう、どうしようもなく胸が熱い。
「──……なら、残りの夜を使って摘み取ってしまう? 冬の夜は暗くて長いから」
少しだけ驚いたような、トレーナー君の表情。
伸びてきた手が頬に触れる。ざわりと、夜と吐息がまじりあって。
彼のふるまいの意味を理解すると、私は声も出せずに瞳を泳がせた。
「……君が欲しくないように振舞って、懸想したことなんて一度も無いように振舞ってきた。全部嘘だ。僕はルドルフが欲しい」
言いながら、私の制服のリボンを引き抜いた。まるで情緒の糸もほどくみたいに。
渇いた花が水を求めるみたいに、ここにはきみとわたしだけ。
「だったら、手折って。きみだけの生花にして」
とさり、とトレーナー君が、やわらかく私を押し倒す。
唇の絵筆で身体をキャンバスにして、宙吊りの恋を本物にして。
どうしようもなく好き。おかしくなりそうなくらい、好きなんだ。
胸の奥、私のこころに絡みつく耐え難い甘美。
たぶれた夢のようにこころは。
ゆらいで。
溶けて、流れて。
私は彼の瞳に映る私を見ていた。
その時の顔を、彼以外にみせることはない。