春のまにまに

 

 

 トレーナー君の手は私の頭にあった。
 ふとした気まぐれで入った、いつもどおりのトレーナー室。ミーティング用のソファを見れば、いつもどおりのトレーナー君。
 ソファに座って書類仕事に打ち込んでいるようだった。私は隣のスペースを陣取って、肩にそっと頭を乗せた。ここまで無意識だ。
 長引いた生徒会業務で疲れていたのだ、たぶん。トレーナー君は驚いたと思う。
 されど彼の手は私の頭にあって、撫でる。

 まるで猫を撫でるみたいに、髪の流れにそって優しく撫でる。ゆるゆるとした手の動きで。

「トレーナー君」

「なにかな」

 何も驚く素振りがない。
 この皇帝が、話しかけもせず突然と肩に身体を預けているのに。まるで私がそうすることが当たり前みたいに撫でる。心の奥底まで知っているみたいに。
 恥ずかしくないのだろうか。
 私は少し恥ずかしくなってきたのだ。

「撫でるのは禁止だ」

「もう生きていけない」

 ……今まで撫でたこと無いくせに。資料の頁をめくる音が聞こえる。トレーナー君の細い呼吸の音も。くるくると髪を指に絡めて弄ぶ音も。
 トレーナー君はなにか言いたげに唇を動かしたけれど、結局何も言わずに仕事という沈黙に落ち着いたみたいだ。
 視線はずっと資料の中。私より仕事というのだろうか、無礼だと思う。

「やっぱり撫でていいよ、トレーナー君」

「どうした、主張を変えてルドルフらしくもない」

「あぁそうかい。撫でたくないなら構わないよ。別に」

 私は怒った。多分今は猫だもの。

「撫でさせて欲しい」

「ん」

 トレーナー君は、髪をとかして私のこめかみに触れた。
 髪の仲介なしに手と肌が触れ合う。
 その手は少し冷たい。
 視線は資料そのままだ。私の頬はあついのに。

「もう。君は仕事ばかりだね」

 私はいじらしくトレーナー君を見る。ちらりと、ようやく視線が合う。しばらく無言でお互い視線を逸らさずにいた。

「トレーナー君の手は、冷たい」

「生まれつきだよ。さむがりなんだ」

 もう春先なのに。私はなんだかおかしくて笑った。

「トレーナー君は、どこにあたたかさをおいてきたのかな」
  
 彼はきょとんとした顔をして、それからなんだか難しそうな表情になって、すぐにいつもの薄い笑顔になる。

「ルドルフの頬にあげたんだ。こうやって」

「……本当に?」

「うん、大事にしてくれ」

 私は黙った。
 トレーナー君の言葉は、まるで雪みたいだ。音もなく静かに、私の胸の奥に積もっている。

「あぁもう。あぁもう」

「……皇帝のイヤイヤ期かな」

 また視線が仕事に戻った。私はまた怒った。頭を肩にあずけたまま、その耳でべしべしと叩く。くすぐったそうにしている。でもやめてはあげない。
 べしべしべしべし、ぺし、ぺし。
 仕事は今しないでくれ。私のことだけ考えていればいいよ。

「こら、こら。やめなさい」

「むう」

 この頬の熱さは、どうやら君の手のひらから奪ったものだったらしい。
 私は一意専心に夢に向かって邁進してきた。思えばトレーナー君はいつも傍にいてくれたね。
 当たり前みたいに。私は、君になにかしてあげられただろうか。

「私はきみから奪ってばっかりだ」
 それはきっと、今でさえ。

「ルドルフ、僕はね。君に何かを奪われたなんて思ったこと、一度もないよ」
 ……君はいつだってそうなんだ。優しくて、優しくて。優しい。

 トレーナー君がくれたものは数え切れないくらいにたくさんで、そして……、代わりにトレーナー君が私から奪っていったものは、他ならぬ私自身だった。

「なぁ、ルドルフ」

 顔を少しおこす。お互いの顔がとても近いところにあって、胸の鼓動まで聞こえるみたいだ。
 そのままくらくらと視線を交わしていると、

「まどろっこしいのは、嫌いだ」

 そういわれた後。優しく抱きすくめられた。
 ひんやりとした手と腕は身体に密着して、私は彼のためにあつらえられたみたい。
 トレーナー君の手はつめたい。そう言おうとして辞めた。

「トレーナー君。やっぱりきみの手はあたたかいよ」

「そうか」

「だから、いつでもこうしていてほしい」

「冷たくなってしまうよ」

「私がかわりにあたためるから、いい」

 トレーナー君の手は私の頭にあって、撫でる。
 私たちはすっかり似た者同士だ
 私から君の匂いがするように。
 君から私の匂いがするように。