Once upon a time

 


 ──いつか私たちが物語になったら。本棚で隣同士に置かれるような、そんな話が良いね。シリウス
 


 

『廊下はゆっくり走るように』

 小さく返事をして、ぴかぴかに磨かれた床と仏蘭西窓で切り取られた長い廊下をと、と、と、と走る。

「叱られたじゃんか、ルドルフのせいだぞ」

シリウスが本気で追いかけるからだ」

 こういう曖昧な雨の降っている日……私はよく屋敷からルドルフを見つけて一緒に走り回った。
 気立ての良いメイド長にせがんで、紅茶とお菓子なんか作ってもらったりもして夜までずっと遊ぶ。それで夜になったら二人でお湯に浸かって、髪を梳かし合って、同じ服を着る。

「着せ替え人形じゃねえぞ」

「だめだぞシリウス。きみのお母さまと相談してちゃんと似合うからって」

 クリーム色のパフスリーブ。裾には繊細なリバーレースをあつらえたお揃いのナイトドレスを渋々みにまとう。
 そうしてくたくたになって小さな天蓋付きのベッドでねむる頃には、勉強がてら二人で異国の物語を読んだ。

『昔々、あるところに』
 ルドルフの声は柔っこくて耳に心地よかった。月の夜おおかみに変身する少女、竜退治の英雄譚、涙が宝石になるお姫さまの話。本当は最後まで聞いていたいけど、いつも私が先にまどろんでしまう。
 そうして優しい声に包まれてこのまま眠りにつこうとすれば、柔らかな夜に溶けていくみたいだった。

「ねぇシリウス、まだ起きてるかい」

「んん、まだ……」

「あしたも、また一緒に走る?」

 ベッドの隣、控えめな声色がすぐそばの私の耳にかろうじて入ってきて、ルドルフの方を見た。横向けの顔の両眼に、月の光がしゅんと溜まってる。
 走ると猛獣みたいに鋭いくせして普段のルドルフはたまにこんな顔をする。

「なんだよ、急に。当たり前だろ、明日こそ私が勝つまで走るんだから。そしたら次に追いかける鬼役は、アンタだぞ」

「嫌になったりしないか? 起きたときにも、シリウスはいる?」

「えぇ? なるわけ無いし、いつもいるだろ」

「そっかあ。ふふ」

 おざなりに言うと何が嬉しいのかルドルフはふにゃりと綻んだ。
 ばかなやつだなぁ。
 アンタに勝つのは私しか駄目なのだから、諦めてやるわけない。まったくもう。
 負けたって次勝てばいいだけの事だ。過去なんか振り返らない。ただ明日だけ。
 

シリウスの声は、科戸の風みたい」

「しな……? とにかく、良くないものはがいしゅーいっしょくだ!」

「はは……! 空谷の跫音ってことだよ」

「なにがおかしいんだよ」

「ううん。シリウスはすごいなって思っただけ」

「とーぜんだ」

 ……嫌いにだってなってやらない。だって嫌いになる理由がないんだもの。
 物心ついたときからずっと一緒だ。明日もまた一緒に走って、シリウスは強いなって言わせてやるんだ。
 いつも「シリウス」と優しい声で呼びかけられる度に胸のあたりが弾む。
 何を今更アンタに躊躇したり配慮したりする必要がある? 私にとって、ルドルフは大切な友達なんだ。お前もそうなんだろ。
 途中読んでやったおおいぬ座の絵本を大事そうに抱えたりなんかして、おおかた寝る前にだって私のことばかり考えているに違いない。
 深い紫色の瞳をじぃっと見やる。まるで星の海みたいにきらきらしてて、目が合うとくすぐったそうに揺れてる。

「ねぇ、シリウス

「なに」

「私たちの匂い、本にうつってしまうね」

 ……? 私は、ちょっと返事ができなかった。ルドルフが何を言わんとしているのか理解できなくて尻尾がもじもじとする。なんでアンタは平気な顔して変な事言うんだ。うやむやに視線を逸した窓の向こうは、虫の声と星の光に満たされて古いまやかしのようだった。

「えと、もう! 早く寝ないとブギーマンに尻尾の毛を全部抜かれちゃうぞ」

「どうしたんだい」

「私はすごいけど、アンタはずるい」

「……変なシリウス

「じゃぁ私、もう寝るから。ん」

 顔をルドルフの前に少し寄せる。
 ふと、……穏やかな顔が微笑みに変わって、それからルドルフの手が私の後ろ髪をそっと撫でた。寝る前の決まりごとだ。主導権を握られるのは気に入らない。でも、シリウスの髪は綺麗だねと髪を梳くルドルフの手はあったかくて、もっと言ってほしくて、私はその心地良いぬくもりが好きだった。
 一房とき終えるたびに仄かな匂いがふわふわと漂い鼻孔をくすぐって、ルドルフの髪と同じ匂いだと気づけばほんのちょっぴり嬉しかった。
 こうして誰かに髪を弄らせるなんてそうそう気の許せることじゃないけど、何にでも丁寧なルドルフになら、と思うまでにはそう長い時間はかからなかった。

「──……髪、少し伸びたね」

「なぁルドルフ」

「うん?」

「このままさ、伸ばしてみようと思う」

 ……髪に触れる、ルドルフの手が止まる。幾許かの沈黙、時計の針の刻む音だけが雨音みたいにしとしと積もっていく。何か言ってほしいのに言ってくれないから、お互い閉口してしまって。
 けれど私は無理やりと言った感じで、閉じかけた口の隙間からどうにか一言だけ押し出した。

「似合うと、……思うか?」

 今は肩先で髪を切りそろえていたから、自分のロングヘアがどんなふうに映えるのか想像もつかない。腰まで届くきれいな髪を持つルドルフを見て、空想の中でその髪を自分に当てはめてみたけれど、今ひとつしっくりこない。
 ……自分で考えても、分からないのだから。それならいっそ訊けば良い。私を見てくれるやつに。一番、見てほしいひとに、だ。

「……そうだね、」

 言葉が途切れて、髪を撫でる手がそっと離れた。けれどルドルフは手をするりと落として、そのまま嬉しそうに私の胸にすっぽりと納まった。くっついたぬくもりが触れる。抱きつかれたことに嫌な気はしない。むしろふわふわの布団に飛び込んだような心地で、深い安心が胸の奥に沁みていくのを感じた。ルドルフの手触りでいっぱいだ。

「私もシリウスと一緒が嬉しい」

「……おそろいとかじゃねえってば」

「きっと、似合うよ」

「ほんとうに?」

「うん、一度見てみたい」

 我ながら意地悪なことを訊いているなって、そう思う。アンタの立場なら、誰だってノーとは言えない質問だから。でもルドルフなら、いつだってそのあたたかい腕で包んでくれる。
 優しい声と、柔らかい匂いと、ダンスと、おいしい紅茶とお菓子、それから、それから…………。なんだって。

「……アンタがそういうなら。まずは、腰までかな。はは、いつまでかかるかなぁ。でも、気長に待つよ。アンタもだぞルドルフ。ちゃんとモノになるまで──……なったあとでもお手入れはしてもらうからな。お前がみたいっていったんだ、最後までちゃんと面倒見ないと許さないぞ」

「ふふ、シリウス嬉しそう。それはかわいがれってことかい?」

「ちーがーうー。ひねくれ者め」

 だってしょうがないだろう、もうアンタは、私より私のことを知っているかもしれないんだから。私だって言われたら、アンタの髪のお手入れに自信があるんだ。……なんでだろう、今日の私は頭がどうにかしているみたいだ。心がふわふわ浮いているような。

「やれやれ、私は素直だよ。シリウスが好きだもの」

「……、……。自分で言うなよなぁ」

 ぼんっ、とひとりで赤くなってしまう。どぎまぎしてルドルフの髪をくしゃくしゃっと撫で返す。胸の奥が早鐘を打つ。まるで夜空いっぱいの星々が、この胸でまたたくように。
 ──そんな私を見て、ルドルフはむふふと笑っていた。まったく、私を誰だと思っているんだか。

「髪の手入れも明日走ることも、“命令”じゃなくて“約束”だからな。命令は無視できるけど、約束は破れない……私たちの約束は、いつも絶対なんだ。安心だろ」

「じゃぁその約束が守れたら、私もシリウスエスコートされてみたいな」

「……欲張りなやつ。じゃぁ先に、寂しくなくなるおまじない」

 今度は私のほうが「やれやれ」と息をつく番だった。
 つんとルドルフの鼻を弾いてから、私の方から抱きついていく。余裕なふりなんてさせねえ。

 アンタは大切なやつなんだ。
 品のいい子犬みたいな、ふわふわとしたくるみ色の髪。
 孔雀が羽を広げたような長い睫毛。
 遠い水平線のむこう、夜明けの暁を透かした一点のようなアメジストの瞳。
 涙が流れたら、それはきっと宝石だ。
 まるで綺麗な月の欠けた所が地上に落っこちてきたのかなって、そんなふうに思える。
 なんで、走るとあんなに格好よくて速いんだろう。
 指であごを引いたら、瞳がかわいらしく細まって、物怖じもせずじぃっとこっちを見てる。

 月の光に照らされてるみたいだ。

 ……うん。ちゃんと、私を見ていろよ。退屈だった毎日に目標が出来たんだ、私は止まらないでアンタを目指し続けるから、だから、まってろ。
 なんといったってこのシリウスシンボリの親友なんだから。アンタなら変わらないでいてくれるだろ? どこへでもどこまでも、一緒だ。

シリウス、くるしい」

「うるさい、私を受け止めやがれ」

 きっとアンタといない時間は人生の無駄遣いで、出会ったときからこうなることが決まってたんだ。そんなのありふれた運命だけどいい。一緒にいるほどすごくしっくりくるから。
 抱きしめて、わかった。私たちはずっと一緒にいるけど違う人間なんだ。だけど他のなにかでは代えられない。月と星どちらが欠けても完成しない。片腕とかじゃなく半身で、合わせて一心なんだ。

「明日、早起きして競争だから。一緒に走るの嫌かとか、訊いちゃ駄目だぞ」

「ふふふ。シリウス、私早起きは出来ないぞ」

「威張るなお調子者! ……知ってるよ。私が起こしてやるだろ。いっつも」

 ルドルフが可愛らしく頷く。大人たちはこれに骨抜きになるらしいけど私は甘くない。
 窓の向こう、雨の止んだ夜空には雲ひとつなくて、ルドルフの手を握ればいつか星の満ちる空にまでのぼっていける気がする。一番輝くあの星まで。
 けれど、今はもう少しだけ二人でこのまま。
 このまま、優しい時間が続いていけばいいなっておもうんだ。