どこにもいくな
「ん………」
眩しい。
手を飾して目蓋を開けば、朝日と少し肌寒い初秋の空気。
目の前にあったのはシーツの上にさらりと流れる胡桃色の尻尾だ。
私はベッドに横たわっていて、その端に座るアンタの垂れた尻尾を見つけた。
手を伸ばして、ひらりひらりと気まぐれにこちらに向く尾をすくい取って指に絡めると、ややあって私の指先に巻き付いて応える。きみのものだと、私にはそんなふうに感じられた。
それは虚勢だとわかっているけれど。
この世に私のものだと呼べるものなんていくらでもある。だが、私のために誂えたかのように丁度良い感触の尻尾の持ち主は最もそれに当てはまらないものだからだ。
「起きたかい」
澄ましたようでいて、妙に耳に親しみ深く残る声。ルドルフの声。
「……まだいたのか」
「おはよう、シリウス」
シャツのボタンを締めながら肩だけで振り返って、「今日は私のほうが早起きだったね」なんて人懐こく微笑むルドルフの向こうから香の高いルフナティーの匂いがする。
ストレートのルフナティー。私の好みだ。
……こういう気遣いが厭になるんだ。馴染み深い紅茶の香りも、子どもに言い聞かせるように触れてくるルドルフの指先も。
たまに早起きしたときくらい、アンタの好きなディンブラを淹れればいいだろうに。
「……今度はいつまでいないんだ?」
「一週間は帰ってこないよ。二日ほどあけたら今度はアメリカだ」
「そうか」
「心配してくれるかい」
「心配するほどアンタが弱いことがあったか。…………何を笑ってる」
「ふふ、君のそういう優しい冷たいふりが嬉しいんだ、シリウス」
「ハッ、そう聞こえるのか。随分と都合のいい耳をお持ちなことで」
この手の露悪的な甘え(私にはそう思える)にいちいち気を立てていたらアンタとの付き合いは成り立たない。身体を起こして尻尾を掬う手を離す。それから耳の付け根のあたりをなんの気なしに触れて撫でた。
ぴくりと身体がわずかに震えて、ルドルフの尾が私に添わる。
「……報恩謝徳。紅茶一杯分、労ってくれても良いのでは?」
「それはアンタが大人しく可愛がられる気があるならの話だ」
小さな声でくすくすとあごを引いたルドルフに私は答えずじぃっと目を合わせる。そのまま耳からルドルフの髪を撫で下ろした。
「……行くのか」
短く聞く。ルドルフは「あぁ」と、小さく頷いて私の髪を淋しそうに撫でた。
──アンタのためだけに生きれば良い。
言葉を飲み込んで、ルドルフの心を手探るような心地で私はルドルフの瞳に映る私を見る。見るほどに判ってしまう。ルドルフの心にある温かさの対象が私だけではないこと。
「私は夢の──いや、自分のために生きる人のために生きたいんだよ。シリウス」
ルドルフの瞳には私が映っている。
アンタがそう言うことなんて。とっくに知ってる。
昔と違う綺麗に飾り立てられたアンタを、美しく思うことがきっと信じるってことなんだろう。
「きみに私の髪の一房でも預ければ安心かな」
「いらねえ。それに興味はない」
ルドルフはやにわに笑う。私がそう言うとわかっていたように。
何をしたって手のひらに収まりきらない癖して、アンタと来たらいつも遠慮なしに私の懐に入り込んできてそれきりだ。
そうして柔らかい髪を指で梳かして弄べばじっと瞳を返してくる。
「シリウス、」
ルドルフがなにかの合図のように私の名前をかすかに呼ぶ。昔から甘えベタなアンタは肝心なときに目だけで私に任せようとする。顔に出すくらいなら素直に口にだせ、と。そう思うのだけれど。
私のもの、というのは案外私の方なのかもしれない。
「顔を寄せろ」
「……、……、シリウス」
「あぁ?」
抱き寄せて耳元で聞けば、自分からは恥ずかしいのだとルドルフは言った。
──思わず笑い出しそうになるのを私は堪える。かの皇帝のなんと可愛らしい悩みかと。
からかうと本気で拗ねるアンタを見てくすり、と笑う
私はまた、ルドルフから秘密を渡されるようにはなったらしい。
「ルドルフ」
そうしてアンタの名前を呼びかけた自分の声が思いがけず優しくて今度は自分が苦しくなる。
声色で察したようにルドルフが転じて艷やかに笑った。好きにしていい、と。
私はルドルフの手を取り、半ば無理矢理に肩を抱いた。
「あ」
影が重なって、すぐ離れる。
実際は瞳の端にくちびるを落としただけ。ルドルフの深い紫の瞳がそうじゃないと揺れている。
「…………」
「はは、好きにしろって言ったのはアンタだ」
「シリウスは狡いと思うぞ」
「また帰ってきたら、だ」
「むぅ」
顔を逸らして幼く拗ねるお前を見て、私は満足な心地で紅茶に口を付けた。
こういう気怠い朝も、悪くない。